西部邁さんが入水自殺で亡くなられたのが今年一月の下旬に入って間もないころだったろうか。
早いのか遅いのか、よくわからんのだけれども、
誰が死んでも世の中は止まることがないことだけは再確認した。
自分という存在は、言語のあまたある可能性のうちのほんの一つを、わずか八十年ほど過去から未来へと運ぶ単なるヴィークルつまり運搬具にすぎないと思ったとき、死は私にとって大きな問題ではなくなった
引用元:http://www.sankei.com/life/news/180201/lif1802010011-n3.html
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