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ブラザー軒  高田渡

 

近ごろ高田渡にちょっぴりハマってまして、

色々とYouTubeで曲を聴いているんですが、

ブラザー軒という歌、聴いたことありますか?

 

 

 

彼は詩人の書いた詩をよく歌ってますがブラザー軒もそうです。

菅原克己という人の詩なんですが、

これに気になってるところがあるんですね。 

 

 


ブラザー軒 高田渡

 

 

 

ブラザー軒  

 

東一番丁、  ブラザー軒。  

硝子簾がキラキラ波うち、  

あたりいちめん氷を噛む音。  

死んだおやじが入ってくる。  

死んだ妹をつれて  

氷水をたべに、  

ぼくのわきへ。  

色あせたメリンスの着物。  

おできいっぱいつけた妹。  

ミルクセーキの音に、  

びっくりしながら  

細い脛だして  

椅子にずり上がる。  

外は濃藍色のたなばたの夜。  

肥ったおやじは  

小さい妹をながめ、  

満足げに氷を噛み、  

ひげを拭く。  

妹は匙ですくう  

白い氷のかけら。  

ふたりには声がない。  

ふたりにはぼくが見えない。  

おやじはひげを拭く。  

妹は氷をこぼす。  

簾はキラキラ、  

風鈴の音、  

あたりいちめん氷を噛む音。  

死者ふたり、  

つれだって帰る、  

ぼくの前を。  

小さい妹が先に立ち、  

おやじはゆったりと。  

東一番丁、  ブラザー軒。  

たなばたの夜。  

キラキラ波うつ  

硝子簾の向うの闇に。

 

 

 

死んだ父と妹が氷水を食べにぼくのわきへ。

「ふたりには声がない。」 死者ふたりだから声がないのはわかる。

「ふたりにはぼくが見えない。」 ここで引っかかるんですね。

普通は生きてる「ぼく」には「死者ふたり」が見えないはずなんだけど、

この詩では逆なんですね。

この整合性のとれないところが気になっていたわけですが、

自分なりに解釈することによって解決しました。

どういうことかというと、

実は「ぼく」が死者で父と妹は生きているんじゃないのか、と。

「ぼく」は自分が生きてるのか死んだのかさえ理解できずに、

ひたすらあの世とこの世の狭間でさまよい続け、

年に一度の七夕の夜に、 家族に会いに来たのではないのかと。

ということで、一応自分の中では納得してはいるんですが、

この解釈、ネットで調べてみた範囲では全く出てこない。

ということで、依然としてモヤモヤは晴れず。

あなたはどう考えます?