奈良、鎌倉に次いでこの兵庫大仏を入れて日本三大大仏と称することが一つの了解事項として果たして世間一般に広く認知されているのかどうかについては若干の疑念もあるのだが、
そんなことはどうでもいい。
奈良、鎌倉に続くのが高岡大仏であろうと岐阜大仏であろうと、
兵庫大仏は兵庫大仏だ。
能福寺という寺にある。
寺の塀越しに、顔が見える。
正門に立つと真正面に現れる。
そのまま真っすぐ歩いて近づいて、
間近で見上げてみると、
巨大さに圧倒される。
畏怖の念を抱きながら階段を上がる。
上がりきって、蓮台に近づけるだけ近づいて、
再度見上げた。
慈悲に満ちた眼差しを感じた。
子供の頃、
親父の胡座の上で戯れた、
あの光景が蘇る。
秘めし心や、はかりごとの、
一つたりともないあの頃が。
横顔が何やら怖く感じるのは、
見る者に邪心があるからか。
怖くはない。
心が洗われたからか。
こういうものが、雑然と捨て置かれていたりする。
街中の、一寺院なのだ。
名所旧跡ではあっても観光地ではないのだ。
寺の内外に、土産物屋の一軒もない。
本堂、月輪影殿。
この寺には、神戸事件、滝善三郎の慰霊碑がある。
以下は能福寺のHPから引用。
慶応4年(明治元年)1月11日、神戸三宮(三宮神社前)に於いて、フランス人水兵へ行った無礼討ちに端を発し、備前藩と諸外国の武力衝突に至る「神戸事件」の責任を取って切腹した備前藩士滝善三郎の慰霊碑です。
切腹場所として兵庫の永福寺(昭和20年、太平洋戦争空襲により焼失廃寺)が指定され、切腹の際の毅然とした態度には居並ぶ諸外国公使達を瞠目せしめたと伝わります。その気迫が日本の植民地化を防いだとも言われます。
市民は切腹場所となった永福寺に慰霊碑を建立することで、心から滝善三郎に感謝の意を表し、その功績を長くたたえてきました。
永福寺廃寺後も慰霊碑は境内跡地にできた「カネテツデリカフーズ(株)」構内に祭られ、大切に供養されました。時を経て昭和44年百回忌を以て、地元有志並びにカネテツデリカフーズにより、能福寺に移設。
鐘楼堂が再建工事中で、
その横にある滝善三郎の慰霊碑だが、
写真を撮りにくかった。
鐘楼堂を挟んで反対側には、
平相国廟がある。
「将軍平清盛公墓処」と立て札に書かれている。
ちなみに、能福寺から少し南へ行ったところに、
清盛塚がある。
塀の外にあった神戸事件の説明のパネル。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。
相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。
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